名残追分新田

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 【台地新田】名残追分新田 三方原台地上の新田で、犀が崖に近く今日両追分と呼んでいるところに開けた新田である。【蜆塚】『遠江国風土記伝』には「高二十五石一斗七升六合、属原」と記載されているだけであるが、『変化抄』に「当村(入野村)新田蜆塚村は蜆からの大なる塚有之故の名に候処、天保十年水野様楮掛役人名残新田江楮植付候こやしに運び取候ニ付、郷名之儀ニ付庄屋吟蔵相断候得共、荷ひ取余程掘に相成候間、右掛り役人江相断申候得者、役人申候ニ者、三ツ山石さへ取候時節、強断候得者咎可申付抔被申無致方ニ付、当村御陣屋江願出漸ク荷ひ取候儀止ニ相成候、何程掘候てもから許リに候、蜆からと申なからも余程大なるも有之、誠に奇異なる事に候、大くほみ元之塚の姿は一向無之様ニ相成、乍併今以近辺はから計、畑是以から余程見え候、是衰微之基と存誠ニ歎ヶ敷存候事」とある。【楮畑】そしてこれによると、この新田には楮(かじ)畑があること、またその肥料源として蜆塚の貝殻を運んでいたことがわかる。

変化抄(浜松市入野町 竹村梶代氏蔵)