三郎五郎新田

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 三郎五郎新田 鈴木三郎五郎という者が十三人を使って西大塚の東地続きの地を開発したのがはじまりという。元禄六年・文化元年の石高四十六石で(西大塚町『鈴木家文書』)、延宝六年の年貢割付によると反別七町七反一畝余で石高はやはり四十六石、耕地面積はすこしも拡がっていない。【川沿新田】川沿新田であるから天竜川の洪水による水損、土砂押込などのために元禄六年の有高は二十一石余、延宝六年(一六七八)から慶応三年(一八六七)までの間に起返しが二十二回におよんでいる。天保十四年の「新田高反別小前帳」をみると、当時この新田の戸数十戸人口六十七人、田一反五畝で畑七町一反五畝二十三歩、そして田の品等は下田ばかりであるのに対し畑の方は上・中畑と下畑が相半ばしている。字別に田畑の分布を示すと下表のごとくで、上畑は折戸に多く、ここは本田に近接し最初に開発された地点であることがわかる。集落は松山に密集している。
 【島畑】一般に天竜川下流域には島畑が多いが、この新田もやはり田よりも畑地の方が広い面積を占めている。
 
(表)天保14年三郎五郎新田の田畑反別
字名上畑中畑下畑下田
 町反畝歩町反畝歩町反畝歩町反畝歩
藪下2.21 4.16 5.07  
古川通 30.22 85.29 22.06
かんの  15.29 1.04
松山 79.27 35.20  
上内  36.00  
萱間 33.09 123.10 18.10
折戸67.18 1.18   
折戸北51.08 47.21 3.11  
折戸際56.29 35.10 4.12  
計(反別)178.15 233.04 304.04 41.20
石高
15.0215.9313.2344.18
石盛石斗
76518
屋敷(松山)14畝03歩