北長十郎新田 長十郎が開いた新田という。【川沿新田】文化七年(一八一〇)当時に村高二十一石、庄屋五左衛門が所持していたが、天竜川の「川付村」のため「川欠引」も十石余にのぼった。そこで起返しのため茅や柳を植え込んだところ、西大塚村ではその地点は自村の所有と主張したので訴訟となり、境界を定めて十二月内済となった(西大塚町『鈴木家文書』)。北長十郎新田の名称は、その後長十郎が南方に新しく新田を開き長十郎新田ととなえたので、区別するために北長十郎新田とよぶようになったのだという(飯田小学校『郷土読本』)。