農民の歴史は水防・利水の歴史でもあった。浜松地方では天竜川筋の村々について、このことが顕著であった。
【浅田村】『旅籠町平右衛門記録』(『浜松市史史料編一』)によると、享保十一年(一七二六)に浅田村・伊場村・若林村あたりに「新堀」の「御こしらい」があった。これは大雨の際の田畑の悪水吐出を目的としたものであったらしい。【志都呂村】その後文政八年(一八二五)に志都呂村前の川通りに「新田開発」のための「新堤」が作られたために西鴨江・入野・伊場・明神野・浅田・東若林・若林・増楽・新橋・法枝・片草・神ケ谷の十二か村では水腐不作の被害がつづくようになった。そこで文政十二年にこの十二か村が志都呂役所(旗本松平氏)に新堤の取払いを願い出て紛争を起こしている(『岡部家文書』)。