【安間村】また寛延二年(一七四九)に安間村と川下の井組二十一か村(青屋・本郷・渡瀬・恩地・安松・石原・下中嶋・蒲嶋・立野・西・向金折・古川・金折・下飯田・上飯田・福増・西之郷・小松方・弥十・参野・長鶴)とのあいだに水論が発生した。その原因は、安間村民が竜光村内の井堰を取り払ったために二十一か村の用水田地が荒所になるとして、その理不尽を幕府へ訴え出たことにあり、これに対し安間村は、川筋八か村(安間・安間新田・松小池・北嶋・篠ケ瀬・薬師・薬師新田・竜光)は川浚組合と称し従来川ざらいを行なっているから出水の際に竜光村井堰を取り払うことは先格であり理不尽ではない、と反論した(『安間家文書』)。【下飯田用水組合】その後文化二年(一八〇五)に井組二十一か村の地域に下飯田用水組合が創設され、幕末維新まで存続した。この組合は近世浜松地方の用水組合の代表的なものと思われるので、その概要を『武藤家文書』(下飯田村庄屋五太夫家蔵用水始末録その他)によって説明しよう。これによると、文化二年から五年がかりで、藩主の御普請(御上様之御仁恵)と関係村々(十七か村)の自普請(村方勤労)との合同事業というかたちで「井堀」(用水路)を竣工した。この新用水路(新井)は半場村用水を竜光村井堰(安間川)水門の下へ落とし、これを下飯田村地先(水神といわれた地点)で堰き込み、引水するものであった。したがって用水源の半場村・竜光村に対する「弁米」(補償費)、取入口にあたる下飯田村の水難に対する「弁米」をはじめ、半場村への「歳暮」その他の雑用(ぞうよう)がかさんで用水組合(井組)の経営は苦しかった。そこで領主に願い出た結果「御手当米」十五俵が年々支給されるようになり、文化八年からはこれを積み立てその利足を用水の助成に充てることとなった。そして文政二年(一八一九)にはその積立金は六十二両となっていた。しかし、以上のように半場・竜光両村を経由した安間川からの引水は水量その他に不都合が多かったので、この年に天竜川(西川)岸に取入口(堰込)を付け替え(その地点は大塚村字弁天か)、そこから安間川に落として引水することにした。その後、明治初年にいたるあいだ、井組は「圦樋」「待圦」の修理伏替その他用水の維持に関する願い出を浜松藩主・中泉代官所宛にしばしば行ない、その結果用水御普請がくりかえされている。また組合のうち「遠水」の村々は水の「乗方」が悪しく救済や組合離脱の問題を起こしている。
【半場村】また天保二年(一八三一)には半場村が自村内に新しく堤防を設けようとしたところ、安間川上流の安間・安間新田・松小池・北嶋・笹ヶ瀬他六か村から「悪水吐」の差障になるとして紛争を生じているし、松小池・四本松・本郷の各村では「水際御普請」を新貝村境と西大塚村飛地に行なうのは、その地点が水筋にあたるから宥恕(ゆうじょ)してくれ、と願い出ている。
寛延三年下飯田村天竜川境目朱引絵図(浜松市飯田町 大杉繁男氏蔵)
(表)文政2年井組高内訳表 (石未満切捨)
村名 | 用水田高 | 備考 | |
金折 | 37 | 石 | 井組の冠主 |
古川 | 2 | ||
向金折 | 1 | ||
立野 | 16 | ||
西 | 16 | ||
蒲嶋 | 3 | ||
富屋敷 | 15 | ||
清光庵 | 4 | ||
下前嶋 | 11 | ||
四本松 | 27 | ||
下中嶋 | 22 | ||
松嶋 | 30 | 文政2年新加入 | |
鶴嶋 | 同上 | ||
西嶋 | 30 | 同上 | |
江川 | 6 | 文政年間脱退か | |
下飯田 | 16 | 井組惣代 | |
石原 | 8 | ||
安松 | 11 | ||
本郷 | 20 | ||
弥十 | 10 | ||
計20 | 290 | この高に組合諸入用その他を割付ける |