【船越一色村】馬込川水域では、安永六年(一七七七)に上之郷・西在所・西塚の各村の田が「水腐悪水」となったので、これらの村々は謝礼を出すことを条件に船越一色村から水を引いているし、享和三年(一八〇三)には船越一色村地先の馬込川に葭や芦が繁茂し流れが渋滞したため川下の寺脇・瓜内・福塚・大柳・八反田・三嶋・馬領家・向宿・楊子・上中嶋・佐藤の各村から故障が出て、双方立会の上これの刈り払いをしている(『広厳寺文書』)。また文政四年(一八二一)浜松藩では普請役をおき松嶋・西嶋・福嶋・江之嶋の四か村に夫役(ぶやく)を命じ馬込川の「水腐」を除くため延長千八百六十七間(人足延十三万人余、費用二千六百六十八両)の浚渫工事を行なっている。【小池村】翌文政五年になると、早出・有玉下村・植松など十一か村の井堰組合と小池村との間に訴訟がおきている。【彦助堤】これはかって「小天竜川」(馬込川)から水をひくために設けられていた早出村の井堰を「彦助堤御普請有之、有玉村地内川替ニ相成」ったので小池村地先に移したが、そのために川幅が狭くなり通水が悪くなったとして、井堰組合が川幅を拡張しようとしたところから小池村が故障を申し立て「水論」となったのであった。彦助堤は新畑を開発するため新原村(浜北市)彦助の所有地に設けた堤防で、慶安から延宝ごろまでに竣成したといわれる(『北浜村村誌資料』第一輯)。その結果は藩役人の調定によって「済口取替」して落着している(早出町『川井家文書』)。
【市野村】馬込川の支流でもしばしば水論があった。元禄十六年(一七〇三)に市野村と小池・天王の両村との間に水争いがおこり、昼間は市野村、夜間は両村と交互に水を引くということで解決している(「旅籠町平右衛門記録」『浜松市史史料編一』)。また慶応二年(一八六六)には、市野・小池・天王・下堀・中田の五か村は、笠井新田村の池から水を引き互いに分水していたが、市野村が「みだりに用水堰留」をしたところから他の四か村との間に争論となっている(『市野村斎藤家文書』)。
文化文政の用水路(下飯田用水)