つぎにそのおもなものをあげよう。【元禄期】元禄十一年(一六九八)七月二十六日には川越嶋地先の堤防が切れて天竜川の濁流が中野町屋・萱場・安間・橋羽・永田・植松村まで流れこんだので、東海道往還が不通となり佐藤村から天王・市野村を経て石田村通りで子安堤に出で船で越している(『旅籠町平右衛門記録』)。【寛政期 化政期】また寛政元年(一七八九)六月十八日中野町村で、文化年間には七年六月五日、十年六月二十一日、十一年七月一日、十三年閏八月四日、文政年間には三年、十年六月二十四日、十一年七月二日、十二年七月十八日に一色・国吉・白鳥・常光村等で破堤をくりかえしている。【嘉永期】下って嘉永三年(一八五〇)七月二十一日には富田・常光・末嶋村で破堤し流家温家溺死が多く衣類道具種物牛馬が流失、八月八日再び氾濫したので、手舟をもって焚出しをしたが追いつかず袖乞いに出るものも現われ、東海道往還は富田村から下石田村まで仮渡船で通行した(貴平町『内藤家文書』)。【安政期 万延期】ついで安政二年七月二十六日にも洪水、万延元年(一八六〇)には四月から霖雨がつづき五月十一日の大暴風で「前代未聞の満水」となり八幡村をはじめ永嶋・高薗・善地・常光・白鳥(しろとり)村地先で破堤し村々は「海面同様」となった。この夜貴平村の村役人は万斛村へ移り志都呂役所(旗本松平氏)へ天竜川子刻切込み床上二尺から三尺におよび「実に大変之儀」と注進している。濁流は浜松城下に達し舞坂村付近まで「廻り水」したので往還はまったく杜絶し交通には舟筏を用いた。こうして八月になっても水は引かないばかりか池田村から植松村まで仮渡船で冷気も加わり、田畑は土砂に埋まれ五年や六年間では起返しの見込みが立たないほどの被害をうけた(貴平町『内藤家文書』)。このときの破堤延長二百九十五間で荒地五十九町六反余流家は九戸であったという(『浜名郡史』)。【文久期】翌文久元年、下石原・末嶋・笠井・上石原・恒武・羽鳥・中善地の各村は八幡村の堤防六十四間の修理にあたっている。天竜川堤防の修理には「公儀普請」と「自普請」の二種があり、前者は幕府(中泉代官所)の直轄工事になり後者はこれによらないものであるが、とかく自普請では不十分のため、このときには「御定式」を願い出たにも拘らず文久二年八月には白鳥村で再び破堤をくりかえしている(天保期は第六章第二節参照)。
【金原明善】このような惨状を幼時から目撃して「治水済民」の悲願を立てたのが安間(あんま)村の久右衛門(のちの金原明善、天保三年六月七日生)であった(金原治山治水財団編『金原明善』)。