馬込川もまたしばしば出水している。享保十四年(一七二九)八月の馬込村庄屋の届書によると、かってこの川には二橋があって、東橋は長さ二十三間、西橋は三十六間でいずれも幅員三間の土橋であったが、東橋はしだいに川水が涸れ西橋ばかりとなった。【馬込橋】この西橋が馬込橋で、承応二、三年(一六五三―五四)のころ板橋に改造されたときは幅員は三間で変わらないが、川水が減少したので長さは二十五間であったという。【延宝期 享保期】延宝二年(一六七四)八月十一日に堤防が決潰して田町付近は七日間家々の軒下まで浸水し、享保十三年七月八日にも田町・板屋町まで水がおよび、つづいて享保十九年八月七日にはまたも板屋町・田町・早馬町一帯が床上二尺(六〇㌢)ほど冠水し、橋当番の旅籠町ほか他町も出動して土俵などを運び馬込橋の流失を防いでいる(『旅籠町平右衛門記録』)。