『曳駒拾遺』(『浜松市史史料編四』)に「みかたが原」として「此原は一里ばかり乾(いぬい)(北西)の方にあり、和地村・祝田村・都田村三村の草かり所なるをもてみかたが原といふと、されとも今は百八さとの草かり場となれり、又三村の原なるをもて此名ありともいへり」とあって、三方原という地名の由来、三村の入会(いりあい)地からのちには百八か村の入会地になったことを簡明に記している。【三方原入会起原】しかしこの原が入会地となった起原は元和年間に溯るのであって、元和年間に中泉代官が野米を地元三か村に課したので、地元村が他の入会村に山札を出して札米を徴収しようとしたことに対し、入会村々が異論を唱え幕府に訴えたのに端を発し、山札を廃し入会地と定められたのであった。その結果、領主は野米を免除して高受地となしたのであったが、入会地の境域を確定したのは元禄年間のことであった。