「一三方原中草之儀 相国様被仰出候(イ遣)ことく入こみたるへき事
一従前に有来候并に新林之儀下草に入こみたるへし 但し枝をおろし木葉をかき候ものは札銭を可出事
一草野之事 四壁のきはより三町田畠のきはは壱町よりうちは入こみ可為停止事
付 原新田仕立候におひては其きわまて入込たるへき事」
この裁許により、入会村は原野において秣草を採取し林地において下草を刈りとることの自由を得、領主もまた野米を免除するのやむなきにいたった。そこで浜松領主高力摂津守は一旦課した野米を消滅してはならないとして幕府に乞うてこれを高に結び、和地村の本高に編入して結着したのであった。このようにして原野はのちに境界が定められて入会地となるのであるが、林地は和地山・祝田山・都田山等となるので、三方原入会地はこの時から地元村と入会村の共有地とみなしてよかろう。

三方原争論裁許図裏書