元和の野論

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 さらに詳しく述べるならば元和六年(一六二〇)中泉代官所(天領)の奉行中野七蔵が遠江の知行割をしたとき、三方原に野米二十七石を課しこれを地元の和地・祝田・都田の三か村に分ち、高力摂津守(浜松領主)と近藤石見守(旗本、井伊谷領主)に引き渡した。和地村は浜松領、祝田・都田両村は井伊谷近藤領であったからである。そこで地元村では、従前からの入会村百三十余か村に対し山札を発行し札米を徴収しようとした。これに対し入会村は、この地元村の行為は入会権を冒すものとして幕府に訴え出た。【元和の裁許】幕府は元和九年九月につぎのごとく裁断した。
 
「一三方原中草之儀 相国様被仰出候(イ遣)ことく入こみたるへき事
 一従前に有来候并に新林之儀下草に入こみたるへし 但し枝をおろし木葉をかき候ものは札銭を可出事
 一草野之事 四壁のきはより三町田畠のきはは壱町よりうちは入こみ可為停止事
 付 原新田仕立候におひては其きわまて入込たるへき事」
 
 この裁許により、入会村は原野において秣草を採取し林地において下草を刈りとることの自由を得、領主もまた野米を免除するのやむなきにいたった。そこで浜松領主高力摂津守は一旦課した野米を消滅してはならないとして幕府に乞うてこれを高に結び、和地村の本高に編入して結着したのであった。このようにして原野はのちに境界が定められて入会地となるのであるが、林地は和地山・祝田山・都田山等となるので、三方原入会地はこの時から地元村と入会村の共有地とみなしてよかろう。

三方原争論裁許図裏書