慶安の野論

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 【寛文の野論】ついで慶安四年(一六五一)には地元の都田村と入会村の宮口村とのあいだに山境について論争(野論)があったが、都田村に有利に解決し、そののち寛文五年(一六六五)に地元の祝田村と入会村の刑部村とのあいだに論争がおこった。その結果、有り来たった田畠林のほかに新林新墾をしてはならないこととなった。この論争の原因は、さきに述べたように三方原を高受地としたために領主と和地村民とのあいだにおいては民有地と認められ、その上に地元村と入会村とのあいだにおいては原野および林の下草の採取は入会村の自由であるが、林の枝をおろし木葉を掻く場合は札銭を出さればならないし、また新田を開き新林をつくることは地元村の権利に属するという複雑な二重関係にあったために、地元村と入会村との争論となったのであった。【寛文の裁許】その結果寛文五年三月に地元村に対して「只今迄有来田畠林は可為如先規、自今以後新田田畑新墾新林不可立之、従前之証文弥相守之不可有相違」と裁定されたのである。しかし有り来たった田畠林のほかに新林新墾してはならないといっても、年月がたてばどれが古林でどれが新林かはっきりしないようになり、地元村はこの停止を冒し新林を仕立て、原野は年々縮少し、入会村の利益を侵害するようになった。それにもかかわらず寛文十二年には都田村農民が「三方原之内」に新田百石を開墾しようとして「中郡」の農民とのあいだに訴訟事件を惹起している。このようにして元禄三年(一六九〇)の争論となったのである。