元禄の野論

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 この事件の発端は、三方原山林の松木を都田村が伐採したとして、祝田村が都田村を相手どり訴訟したことにはじまる。検分の結果、伐跡二千六百本余あったが、そのうち六、七百本は山守の助次郎なる者が盗伐したことが判明し、助次郎およびその子善次郎は死刑となり、罪人を出した下都田村庄屋惣左衛門は庄屋役を取りあげられ五十日間の牢入りとなって九月いちおう解決した。【元禄の裁許】しかし、これはひいて全入会村の論争と発展し、ついに幕府の裁定となった。この結果三方原入会地の境界は「東は有玉東之崖留り限り、西南は本坂道、北は金指道より二俣道を限り」とし、その立木は伐採ができるようになり入会村に付与した高に応じて配分することとなった。そして地元三か村を含め敷智郡四十五か村、長上郡七十二か村、豊田郡十四か村、引佐郡五加村、麁玉郡二か村都合五郡百三十八か村の入会地と決定した。なおこのさい指定洩れになった村が敷智郡で十一か村、長上郡で十六か村あった(別表「元禄三年三方原秣場入相村々高辻」による)。また大沢領の村々では指定を受けた村が一つもない。いずれもその理由は定かでない。しかしこれと同時に和地山・祝田山・都田山の区域もまた確定し地方三か村が専ら支配するところとなった。そしてこれ以後紛争も生じないようになったのである(『三方原入会地の沿革』『浜名郡史』)。
 もっとも、のちに天保四年(一八三三)七月になって、この百三十八か村に洩れていた大沢領倉松村が「三方原江猥ニ秣苅ニ」出たとして入会村である隣村新橋村組合六か村と紛争を生じたこともあった(「有玉村高林家諸用記」『浜松市史史料編三』)。
 『変化抄』に、和地山へのごかきは年々九月の末ごろから三月までで「日々五、六拾人計、朝晩往来致候ニ、うたをうたひ賑敷」く往還筋を通行した、とある。
 
(表)三方原秣苅場138か村(元禄3年)
敷智郡45か村        
 青山下野守領  宇布見村西鴨江村片草村入野村伊場村
  東鴨江村東若林村若林村増楽村小沢渡村堤村新橋村
  法枝村田尻村浅田村明神野村白羽村中田嶋村福塚村
  寺脇村瓜内村三嶋村楊子村馬領家村上中嶋村向宿村
  佐藤村野口村船越村茄子村新津村嶋之郷村早出村
  上嶋村高林村助信村中沢村和地村佐浜村富塚村
 服部主殿・松平主馬之助・秋鹿長兵衛・三宅半七領     神谷村 
 服部主殿領  大久保村山崎村伊左地村  
 秋鹿長兵衛領  人見村(大人見・小人見)    
長上郡72か村        
 青山下野守領  有玉村(2)小池村漆嶋村西ヶ崎村中条村
  横須賀村高畑村美薗村沼新田村油一色村万斛村笠井村
  上前嶋村大瀬村天王(3)上新屋村丸塚村上之郷(2)西塚村
  宮竹村植松村永田村原嶋村笹ヶ瀬村北嶋村薬師村(2)
  橋羽村竜光村長ヶ鶴村青屋村蒲下村渡瀬村名切村
  塚越村参地野村恩地村本郷村弥十村安松村西之郷村
  福升村上飯田村下飯田村金折村古川村石原村西村
  立野村四本松村下中嶋村下前嶋村富屋敷村御久村鼠野村
  大柳村      
 近藤登之助領  平口村半田村   
 近藤五左衛門領  内野村    
 近藤縫殿助領  小松村    
 市野惣太夫領  木船村小林村寺嶋村打上村市野村
  笠井新田村      
 服部主殿領  上石田村下石田村   
豊田郡14か村        
 青山下野守領  国領村本沢村羽鳥村恒武村常光村
  白鳥村松小池村長命村大見村大明神村  
 市野惣太夫領  石原村貴平村善地村  
 近藤彦九郎領  小野村    
麁玉郡2か村        
 秋鹿長兵衛領  宮口村新原村   
引佐郡5か村        
 青山下野守領  刑部村都田村   
 近藤縫殿助領  気賀村    
 近藤登之助領  瀬戸村    
 近藤彦十郎領  祝田村    
138か村ニ洩レタ村        
 敷智郡11か村  上池川村下池川村青嶋村八幡村福地村
  馬込村米津村十軒新田蜆塚村谷上村名残村 
 長上郡16か村  別久村次広村小松方村頭陀寺村向金折村
  蒲嶋村江川村清光庵村福嶋村平右衛門新田江嶋村 松嶋村
  鶴嶋村将監名村細嶋村    
あろはおえ