宝永地震

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 宝永四年(一七〇七)十月四日の地震のさい、浜名湖東岸の山崎村では津浪(つなみ)のため田畑が潮入りとなって作物は抜き捨てるという有様で、その年も越えかねるということになり、庄屋たちは「惣百姓申候は御拝借米弐百俵願上くれ候と申に付」、その配慮を乞うたがとりあげてくれない。そこで庄屋組頭四名と百姓七名が代表として江戸へ下って歎願におよんだ。しかしこのようなことは国元で解決すべきことである。それを越訴(おっそ)するのは不届千万ということで、庄屋組頭は闕所(けっしょ)(財産を没収すること)追放となっている。庄屋丑之助はこの処置を不当とし江戸で「御老中様へ御駕籠訴訟を申上げ」、享保四年(一七一九)までかかりようやく失った田地の一部を回復することができた(「山崎江馬家資料」『雄踏町誌資料繝一』)という。【元文期】また上都田(かみみやこだ)村・下都田(しもみやこだ)村・笠井新田村・志都呂村では元文元年(一七三六)十二月に村民たちが拝借金の下付を要求し、庄屋十人が江戸表へ出訴を企てたとして志都呂陣屋(旗本松平氏)に捕えられている。【明和期】ところが明和五年(一七六八)になると上都田村・下都田村では拝借米について紛争を生じ、村民は庄屋たちの説得に服せず江戸表へ越訴をくわだて主謀者二十名は縄手錠の厳罰に処せられるという事件が起きている。こえて同八年にはその原因はわからないが薬師村庄屋は打首、永田村庄屋は永牢という酷刑をうけている。おそらく都田村に類する事件があったのだろう(「都田村年代手鑑」『浜松市史史料編二』)。