天明の騒動

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 天明年間は全国的の飢饉で各地に騷動がおきている。【中郡方面 都田方面】浜松北部地方でも人心の不安がつづき天明四年十一月十八日には小松村八右衛門・芝本村林蔵・万斛(まんごく)村源蔵宅が襲撃をうけるというさわぎがあったが(『内山文書』)、同六年(一七八六)は「秋中雨ふり」「大違作」で、上都田村・下都田村では「百姓不残」折よく出張してきた領主松平家の役人に減免を「押而願」ったところ、かえって咎めをうけて主謀者利右衛門は「欠落」をし、ついに「永尋」になる始末であった(『都田村年代手鑑』)。【笠井方面 二俣方面】このころ、また笠井村には過激な立札を立てる者があり、豊田郡二俣(ふたまた)村では三方原に集合をせよ(延享二年にも三方原辺の村々寄合の風説があるが無断集会は禁止の旨触書がでている)、という廻状を出す者もあらわれ世情なんとなく不穏であったが、はたして十月十六日笠井村では庄三郎・庄兵衛・庄右衛門(以上池田家一統)・徳三郎ほか二軒が強奪にあい、翌十七日夜には二俣村(天竜市)に波及し、北遠の山村青谷村外十三か村、およそ七、八百人が同村の名主甚右衛門ほか四軒を「打つぶし」ている。主謀者は死刑や遠嶋になったという(『内山文書』)。『都田村年代手鑑』はこの間の消息を「中郡辺百姓そうどう有之、家潰申候」と伝えている。その原因は「二俣村商人共」が物資を買い占め売り惜しみをしたためであるという(『中村文書』)。笠井村といい二俣村といい、いずれも町名をもって呼ばれ、前者は笠井市(後述)の市場であり、後者は北遠地方の物資の集散場であった。
 翌天明七年は米価が一升百八十五文に高騰した。宇布見村では「甚百姓大難儀仕、村方宜者は米麦稗等至迄少々宛も水呑百姓助合」い、とにかく平穏であったという(『雄踏町誌』)。