三方原の論争は野論と山論を兼ねたものであったが、山論もしばしば行なわれた。【滝沢川名村山論】たとえば大久保村(当市大久保町)と宇布見村(浜名郡雄踏町)との間にある大久保山の山堺が不明のため紛争がおき、貞享三年(一六八六)解決しているし(「旅籠町平右衛門記録」『浜松市史史料編一』『雄踏町誌』)、また滝沢村(当市滝沢町)と川名村(引佐郡引佐町)とのあいだに享保十年(一七二五)に山境について出入があったが、明和二年(一七六五)にも再び論争となりようやく裁許となっている(滝沢町『西沢文書』)。【楊梅献上】なお都田村には楊梅(やまもも)の山林があって、その実を領主へ献上する例であった(『都田村年代手鑑』)。【柑子献上】ちなみに喜多嶋村・白羽村の柑子は贈答品としてよく用いられたものである(『寛延三年喜多嶋村差出帳』『元禄三年青山信濃守文書』)。
【西嶋村御鷹山】万延元年(一八六〇)西嶋村三郎右衛門は村内に御鷹山と御宿部屋普請を願い出ている(西島町『池田文書』)。
滝沢山論裁許図(浜松市滝沢町自治会蔵)