漁業と貢租

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 これらの漁村は漁業をするかわりに諸役の割宛を受けたり、持舟や漁獲物などに対して年貢運上を課せられていた。【大通行と漁船】たとえば正徳元年(一七一一)の朝鮮使通行のさいには「両海辺村々寄せ船九十艘、内六十八艘手太船・あぐり船、二十二艘浜船・猟船」が動員され、篠原村は猟船十五艘を分担している。【海辺改】両海辺とは浜名湖東岸の二十七か村の東海別と西岸の二十三か村の西海別とを合わせた名称であった(両海辺の村々は、海辺改といって今切関所の命をうけ、関所を抜けて湖をこす者の看視にあたっていた)。また文久三年(一八六三)将軍上洛の時は大沢領では堀江村十五艘・和田村五艘・白須村二十五艘・村櫛村四十艘が出動している。これは一例にすぎないが、いつでも大通行の際には新居宿だけでは今切渡船の常備船が不足したからである。
 【猟船運上】断片的な記録であるが、宝永三年福嶋村では猟船運上七百文と船年貢に田作鰯を(『福嶋村山田文書』)、また「松嶋村鶴嶋村差出帳」によると地引網船と上荷船の運上を金納している。また舞坂村では鰹釣り船運上として延享三年(一七四六)鰹百二十本代を一本につき二十八文ずつ鐚三貫五百文を上納している(舞阪町『渡辺文書』)。安政五年(一八五八)西嶋村も同様に金納している(西嶋町『池田文書』)。正徳二年(一七一二)中田嶋・白羽村は舟役を、法枝・田尻・新橋・堤・小沢渡村では小網役を勤めている。【地引網】このように遠州灘沿岸では地引網も行なわれ、鰯の漁猟もあったのである。そしてこれらの漁獲物は寛文八年(一六六八)の「肴町肴商売由緒書之覚」によっても「西は舞坂湊より東は掛塚湊之内にて取上候魚類他所之者共に一円為買申間敷候」とあり、浜松と密接な関係を持っていたことがわかる。
 
東海別27か村
舞坂村馬郡村坪井村
篠原村富塚村小藪村
入野村片草村西鴨江村
志都呂村宇布見村山崎村
小人見村大人見村伊左地村
佐浜村和地村平松村
白須村細田村神田村
西村和田村村櫛村
内山村呉松村堀江村