『遠江国風土記伝』の村櫛の項に「鳥浦、毎船貢鐚八百文、鳥捕者黐縄」とあるように、浜名湖岸の大沢領村櫛村では黐(もち)を縄に塗って湖面に流し鴨を捕獲する鳥猟が行なわれていた。鳥浦(とりうら)とは鳥猟を許された浦という意味であろうが、浜名湖ではこのような方法で鴨猟をすることを鳥浦といっていた。【平四郎船】漁民十四名がこの特権を株として所持して十四艘の舟を管理し(「明治二年鳥浦一件窺書」)、そのうちの一艘は平四郎船と称し運上および諸役は御免であった。平四郎家の貞享二年(一六八五)の由緒書によると、祖父平太夫が「今切海中」において流し黐で鴨猟をする様子を権現様がご覧になって感服され、運上諸役御免の墨付をいただいたのがはじまりである、といっている。【許可手形】株所有者は鴨猟のはじまる九月になると今切関所へ認可状(千形)の下付を願い、これには関所の管理者である吉田城主と中泉代官所の両判が必要とされていた(今切関所を吉田城主が管理を委任されたのは元禄十五年以降である)。【運上】有効期間は翌年二月までであったから毎年下付を申請する要があり、船一艘につき銀十匁ずつを中泉代官所へ上納することになっていた。認可状は「女鉄砲之儀は不及申上、手負其他旅人同荷物何品ニよらず一切精乗渡申間舗」「何之村江茂陸江上リ不申」「殺生之外夜船一切乗不申」また「船余人江貸申間敷、此外何事によらず御関所ニ而被仰出候御法度之趣堅相守可申事」とし、関所の法度に違反しないという内容で(湖西町『区有文書』)、この点は前述の漁猟も同様であった。もちろん鉄砲の使用は厳禁されていたのである。【宇布見村の鳥浦】正徳三年(一七一三)九月の『宇布見村中村家文書』(『雄踏町誌』)によると、宇布見村にも鳥浦船二艘があった。【入野川の鳥浦】宝暦元年(一七五一)十二月篠原村八郎左衛門は入野川で鳥浦をして「入野川預り役人」と出入におよび(『舞坂宿文書』)、安政二年(一八五五)十一月気賀下村代吉は浜名湖で鳥浦をした件で村櫛村鳥浦衆へ詫状を出している。【鴨の献上】なお浜名湖の鴨は献上品として用いられた(『曾許乃御立神社記録』)。