寛文の裁許

279 ~ 280 / 686ページ
 【村櫛村 宇布見村】寛文四年(一六六四)採藻権をめぐって村櫛村と宇布見村とのあいだに訴訟事件が発生した。翌五年に幕府はこれを裁断し、村櫛村の主張を認め「海上之庄境」から「新井洲崎一本松」を見とおす線を村櫛村の採藻場として確認した。そのさいの裁許絵図(裏書がある)は村の財宝として伝存され今日にいたっている。【越売盗採禁止】天和二年(一六八二)に村櫛村から領主大沢氏に出した手形によると、藻草を他領へ売ることは御領地のたしにならないから藻草運上はしない、とある。大沢氏は本領のたしにするために藻草を他領へ売ることを早くから禁止したのであるが、この他売禁止に違反する事件が近世後半になるとしばしば起こっている。延享四年(一七四七)八月に藻草を採取したかどで「咎分有之八人背手錠五人藻草取リ候者籠舎八人閉門」となっている(『宿芦寺文書』)。おそらく盗採か他売であろう。寛政二年(一七九〇)村櫛村の又次郎が他領の佐浜村へ「越売」したとして領主から吟味され、村櫛村の総百姓が連署して領主宛に今後は他領売御法度に違背しないことを誓っている。寛政十一年十一月村櫛村と堀江村外六か村に「藻草取場出入」があり、見分吟味があったが、翌十二年の裁許証文によると、他売御法度の励行は産地の村櫛村よりも消費地の堀江村外六か村が強く希望していたとみられる。【水野氏と藻草】天保十二年(一八四一)には水野忠邦が浜松領へ買い受けたい旨を大沢氏に申し出た。これに対し庄内地方の大沢領全村は、先例の他売禁止を大沢氏に願い出ている。これは大沢氏が水野氏の権勢に屈することを恐れたためであろう。近世後期には藻草は自給肥料にとどまらず商品として価値を高めたのであった。【入野村の採藻】『変化抄』に、入野村では宇布見村から菖蒲藻・にら藻を買い入れており、その価格は幕末に近づくにつれて上昇する傾向にあった。安政二年(一八五五)には宇布見・篠原・坪井・馬郡・舞坂の諸村は藻草売買は「組合」を通じて行なう旨を申しあわせている(馬郡町『藤田文書』)。当時、舞坂を除く他の四か村は採藻に関し、地先の海を「入会取揚」としていたのであった。

宇布見村村櫛村藻草海上境裁許絵図