近藤氏

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 藺草は宝永地震のさい高潮の被害をうけた泥田を起返して潮入田に適合した植物として移植したのがはじまりで気賀村がその中心地であった。気賀(きが)村寸座(すんざ)豊田家の安永三年(一七七四)記録に、この地方の地頭近藤縫殿助(旗本)が「江戸より琉球草を被為遊御持参、御庭前之地江御植へ被遊候処段々広まり領分中へ被下置」とあるように近藤家の奨励があずかって力があった。すでに天明年間には江戸表と取引があったという(『遠州の畳表』『変化抄』)。なお三ヶ日村方面の藺草は引佐郡大谷村高栖寺の玉庵が永正年間(一五〇四-一五二〇)備後より移植したと伝えている(『引佐郡誌』上)。