大福寺の記録によっても、すでに天文年間(一五三二-一五五四)に綿の生産が浜名湖岸で行なわれていた事実が明らかであるが、西遠平野に綿作がどの程度普及していたかということになると残念ながらわからない。しかし、それが江戸時代へはいると平野一帯にわたって行なわれるようになって、各地に綿作地があらわれるようになる。これを浜松を中心に挙げてみると、浜松の(1)東北部(2)東南部(3)西南部(4)庄内地方の四地域に大別することができようが、そのうちで耕地面積もひろく生産額の多いのは東北部で、他はぐっと規模も小さくなる。したがって遠州木綿の主産地といえば、この東北部を指すものと考えてよいのである。