中郡地域

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 この浜松東北部地方は中郡(なかごうり)(有玉村方面から万斛・漆嶋・橋爪・西ケ崎・上大瀬・下大瀬・上前嶋村方面)と呼ばれた農村地帯で、当市貴平町(当時貴平村)の内藤家に元和元年(一六一五)の年貢割付状があり、その中に綿作検見引三石四斗二合とあるところからみると、天文年間から半世紀を過ぎたころには、この地方においてすでに年貢の対象となるほどに綿作が普及していたことがわかる。また綿作は天候に左右されることが多かったので「当方畑方木綿作之儀夏以来より土用中ニ不限折々風雨ニ而生立不得、何分実入悪敷未タ笑ミ不申」『松木嶋村検分願』)といった見分願が、延宝四年(一六七六)に横須賀村・中条村、宝永元年(一七〇四)に高畑村・油一色村、享保元年(一七一六)恒武村から出されていることからみても、この地方が綿作の先進地であったことが推察できる。
 この理由はいろいろあろうが、地理的条件として天竜川の川筋が江戸前期に東へ移動したために(馬込川・船越・田尻湊を参照)、この地方には広い川床跡を利用して開拓した畠地が多いことがまず第一に挙げられる。【皆畑地帯】享保四年の『国領組諸色覚帳』によっても、中郡をふくむ浜松領内国領組五十三か村の田畑の比率は、総石高で四対六の割合を示し、しかもそのうちの二十か村は「皆畑」と称する村々であった。【藍紫草】したがって『遠江国風土記伝』の美薗庄の項にも「村々作陸田、紫草・藍・絹・綿等為産物」とあるように畑作を主作とする村々が多く、中でも綿作は地味にも合い収穫量も多く有利であったことなどが、この地方をして綿作の先進地に成長せしめたおもな原因であろう。