【嶋畑地帯】これにつづくのが東南部であった。【藍紫草】この地方は浜松の東部から南方の海岸にいたる地方で、『遠江国風土記伝』に「於海辺者、沙土緊積而為嶋、故村々負嶋名也」とあるように嶋の名を負う村が多く「綿・紫草・藍・薑・瓜・芋・午房・人参」(川輪庄の項)などの畑作が行なわれた。その一例として『旅籠町平右衛門記録』によって寺嶋八幡地(当市寺島町・北寺島町付近)の綿作について述べよう。これは当時ここに旅籠町所有の田畑があったのでこの記録が残ったのであるが、これによると延宝八年(一六八〇)八月・元禄十年(一六九七)八月・元禄十二年・正徳二年八月(一七一二)・正徳四年七月・享保二年(一七一七)八月・享保六年七月、いずれも風雨や洪水(馬込川など)のため木綿・大豆が「一円取不申候間、御訴訟申上」年貢を引いてもらったとあり、これに反し享保九年は「木綿大分町在々共ニ当国者取」れ、つづく享保十一年も「在々町中も木綿能せ(ママ)取仕候、仕合能者壱畝十二反取(ママ)」れ豊作で、前年木綿の値段「一わ(斤コ)七十文くらい」したのに今年は三月ごろから百五十文と高値をよんだ、と綿作の状況を詳細に記している。ことに享保九年の条に「三州より上方者木綿殊外ちがい申候由」と他国の綿作に触れているのは興味ぶかい。