換金作物と綿

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 これは換金農作物として綿の栽培がもっとも有利で収益も多かったためであるが、これに拍車をかけたのが石代納とよぶ徴税制であった(前述第四章第四節)。当時「皆畑金納之村々」とは、こうした徴税制が行なわれた村々をさしていう言葉であったが、中郡(なかごうり)方面の農村もその一例で、農民は年貢を納めるためにも貨幣収入の途を探さねばならなかったし、そのためには綿の生産額を増さねばならなかったのである。嘉永元年(一八四八)九月有玉七か村は「当村々木綿作之儀、夏以来旱魃にて皆無同然」になったが「当村之儀は木綿作取入売払代金を以年々御上納仕来候」といっている。綿の不作が「皆畑金納之村々」の経済にどれほど深刻な打撃を与えたか理解ができる。