綿布の生産

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 もともと綿作は農家の副業として発達したもので、綿花から綿糸をとり農閑期を利用して手機を用いて綿布に織り、衣料として自給自足するものに違いなかった。しかし、このように作付面積も増加し収穫量に余剰ができてくると、女子によって「木綿はたかせぎ」(『正徳三年本沢村差出帳』)がはじまるようになった。【綿布の販売】たんに実綿・繰綿としてのみでなく木綿布として販売する方法である。ことに中郡方面の綿は「橋爪の小袖綿」という言葉でも知られるように品質がよかったばかりでなく、この地方は藍の栽培がさかんで(『有玉村高林家諸用記』天保四年に藍跡分引三反余とある)、しかもその質もすぐれていたので、この藍を用いて染めあげた綿布は堅牢で色調も秀で人々の珍重するところとなった。それに絶好の市場としての笠井市にも近かったことも手伝って、やがてこの地方に木綿織物製造の風習が馴致されていくのである。
 【桟留縞】天保十五年浜松に在住した大蔵永常(おおくらながつね)はその著『広益国産考』において尾州・三州・遠州辺で織出す品を桟留縞(さんとめじま)(嶋)とよび、非常に利益の多いものだ、と述べている。