小栗家の歳々有物張

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 豊田郡恒武村(当市恒武町)は高三百二十九石、家数四十六軒、人口三百三十五人(『国領組諸色覚帳』)の村落であるが、この村の小栗家(武右衛門)に『歳々有物帳』という帳面がある。これは正徳三年(一七一三)から幕末期にかけて、同家の資産状態(在庫品は金に換算してある)を翌年の正月に記入したものである。
 これによると、享保元年(一七一六)から五年までのあいだにおける綿関係(実綿・繰綿・木綿布)の保有金額の資産に対する比は下表のとおりである。享保九年は木綿の値段が騰貴した年であるが(前述の『旅籠町平右衛門記録』参照)、この年は資産二百三十五両に対し綿関係は九十両で三八%に達している(これに対し米は七十五俵で二十一両、麦八十六俵で十二両、大豆一両、貸金三十九両、その他七十一両などである)。なお、この年は布二十反の価格は一両であった。
 同家の資産は享保十五年(一七三〇)に三百五十九両、享保二十年に六百七十四両、元文五年(一七四〇)千八百六十八両と増加していく。まさに同帳の年末ごとに記入してある「千秋万歳」であった。三浦俊明氏の調査によれば、寛延三年(一七五〇)の当初において資産約三千三百両で、その内容は貸金が全体の二七%、ついで「有金」が六百九十五両の二一%、綿関係が五百九十五両の一八%となっている(北島正元・三浦俊明「浜松藩」『物語藩史4』)。当時同家は笠井市(後述)に米穀を出荷しており、三浦俊明氏の説くごとく米・麦・実綿・繰綿・大豆などの農業生産物を販売する在郷商人であったらしく、同時に武家・農民を対象とした高利貸を営むことによって、その富を蓄積していったのだろう。享保十五年には「御用金」を課せられている。

小栗家歳々有物帳(浜松市恒武町 小栗節子氏蔵)

年号資産綿関係百分比
享保元1652213
21741810
3220136
42293716
52602710