このように木綿の生産がさかんになるにつれて、これにともなう各種の技術も進歩した。『変化抄』にはさいわいに入野村の場合について簡略ながら記述があるので、これによって述べてみよう。
【綿打業】『変化抄』によると、入野村の綿打ちは「古来より綿は手弓にて打来候処、文化十三年(一八一六)より唐弓」となって能率も向上し、文政十年(一八二七)ごろには村内に綿打屋が所々にできて仕事も分化してきたという。
【高機使用と生産増加】また織機は、これも古来からの低機(ひきはた)(臥機(ふせはた))で一日に半反織る程度であったのが、文化十二年から臥機を改良した高機(たかはた)の使用がはじまり、一日に一反の織り上がりをみるようになって、生産量も増加するにいたった。
【流行織】こうなると従来の桟留縞(さんとめじま)に新味を加えた「上所之品程売候世中ニ相成」り、天保のころには技術も進歩し「流行織」さえも現われ、時代に適合したものを製織するようになった、という。
【織屋業】画期的な出来事はこの地方に織屋ができたことで、従来は「此辺にては織屋と申は古来無之候処」、天保六、七年にいたって入野村で織屋を営むものが現われ、近隣の宇布見村の中村弥九郎、つづいて志都呂村の与平らもはじめた。この人たちは、はじめは農家が持参した綿布を「ひろたけの多少によりあたいを定め」買いとっていたが、それでは手数がかかるので直接「織手嫁を抱へ始め」て自家製織をはじめた。これが織屋のはじめであった、といっている。
【糸引業】そして「糸計り取持出」した方が「世わも無く随分引合」うということになって弘化四年(一八四七)ごろには糸引きを専業にするものも現われるようになった、といっている。【十反引き】以上は入野村の例であるが、このころと前後して東南部方面では小山みいによって織屋がはじめられ、東北部では十反引きが行なわれるようになったという。