藍の移入

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 しかし、綿布の生産が増すにつれ、この地方の藍だけでは需要に応じきれないので、阿波藍などが移入されるようになる。舞坂宿の問屋場の記録「永代控」によると、天保十五年から嘉永四年までの八年間に入野村又兵衛は八十二駄、志都呂村治右衛門は七十駄余、同村伝八は四十七駄余、そのほか富塚村弥七・善右衛門が藍を取扱っている(『舞阪町史』史料編一)。