市の商圏

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 これによると、笠井市の発達には浜松の塩商人・肴商人の出張販売が与かって大きな力があったわけである。『甚八付込日記』は二俣村の商人甚八が記した元治元年(一八六四)から慶応二年(一八六六)までの身辺雑記であるが、笠井市で「魚仕入」をして北遠の横山村方面へ売りさばいている。【市の保護】また笠井市の関係者も、たとえば天竜川以東の商人には天竜川の渡船賃を大豆・麦によって池田の渡船業者に支払ってやり、市の繁昌に心を用いた。【船大豆 船麦】これを「船大豆(ふなだいず)」「船麦(ふなむぎ)」といったという。ところが文化年間に天竜川西の村々の者が「地船」で天竜川を渡り、川東の旧方の村々や森・山梨の月例市場へ畑作物や農間稼の竹木細工品(竹かご・なべぶた・桶筒・鍬柄など)を売りさばき年貢金に充てた。【横越渡船】これに対し天竜川渡船の独占的特権を持っていた池田村はこれを新規の「横越渡船」として抗議し、双方のあいだに紛争が起こった。このとき川西の村々は、近くの笠井村の「月六度之市場」へ出荷すると大きな下値になるので川東に販路を求めたのだ、と反駁している(『油一色村渥美家文書』)。笠井市にはこのような事件もあったのである。