農民が商行為をすることは歴代城主の忌むところであったが、ことに強力に勧農策を押し進めていた水野藩は、天保十四年(一八四三)に「笠井市不相成」(豊町『松島文書』)として笠井市の閉鎖を命じ「郷方ニ諸売事御差留」の禁令を出している。しかし、これは「貴奢之品御差留の段有難奉存候得共」これが実施をすれば「是迄表店借遣し冬分ニ相成店賃受取、御年貢諸払仕候共過半有」る当村では、年貢も払いかねると主張した村民の反発にあい撤回せざるを得なかった(笠井町『川島文書』)。時代はおもむろに動きつつあったのである。前ページの表は明治五年笠井町の上町の職業構成である(田辺寛司「笠井市場覚書ー市神祭と観音縁日ー」『土のいろ』復刊第二十五号)。