横浜貿易

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 【遠州屋】久平は、このようにして蓄積した財をもって笠井村清六・下石田村治三郎・同村宗兵衛とともに共同出資をして元治元年(一八六四)五月横浜に遠州屋という貿易商をはじめている。
 清六の姓は鈴木で屋号を糀屋といい、油粕などを扱う笠井商人で、治三郎(小池姓)・宗兵衛(佐藤姓)も農業に従事しながらも一面には商人であったらしい。
 店舗は横浜本町四丁目(のちに弁天通三丁目)にあって、間口四間、奥行五間の建物を主とし、茶・生糸・種紙・繰綿・椎茸など遠州をはじめ国内の商品を集荷して、これを売りこむことが目的であった。その商品の廻送には掛塚湊を利用した。経営ははじめは順調であったが、まもなく出資者間に軋轢が生じ負債もかさなり、慶応三年九月には解散のやむなきにいたり失敗に終わっている。
 しかし、これら浜松近在の在郷商人たちが、いちはやく商機をつかみその資本をもって当時もっとも魅力のあった海外貿易に着手し横浜に進出して飛躍を試みようとした点は刮目すべき出来事であった。
 【金原明善】このとき遠州屋の整理にあたって腕をふるったのが久平の子、のちの明善であった(金原治山治水財団編『金原明善』)。