忠邦の略歴

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 忠邦は寛政六年(一七九四)六月江戸西久保邸で生まれ、文化九年八月十九歳で家督を継ぎ肥前津六万石の城主となって和泉守となった。【浜松入封】同十二年奏者番、ついで同十四年九月寺社奉行を兼ね左近将監となり、同年九月十四日遠江浜松城六万石に転封した。時に二十四歳であった。
 文政八年五月大坂城代に、翌年京都所司代となり侍従に任ぜられ十二月越前守となった。【老中就任】同十一年十一月西丸老中に、天保五年本丸老中に昇進し中央政界に進出して御勝手御用を兼ねた。同八年四月に将軍家斉(いえなり)が家慶(いえよし)に職を譲ってからもひきつづいて老中に任用され、同九年西丸火災のさいはその再建の功によって近江国蒲生・坂田・浅井の三郡中において一万石加封。同十二年閏(うるう)正月前将軍家斉が逝去すると、かねてから時弊を痛感し享保・寛政の治に復したいという志を抱いていた忠邦は、いよいよ多年の抱負を実現する期が到来したとして果敢な改革に着手した。これがいわゆる天保の改革で、時に天保十二年(一八四一)五月忠邦四十八歳の男ざかりであった。
 天保の改革は、奢侈の禁止・風俗の矯正・物価の引下げ・人返し令とよぶ農民の都市集中の禁止・株仲間の解散・印旛(いんば)沼の開拓・上知令といわれる江戸・大坂周辺十里四方の知行地返上などと多岐にわたっていたが、その基本精神は武家の支配する封建社会を本来の姿にもどすことにあった。しかし、この強圧的な改革はきびしい非難を受け二年半足らずの同十四年閏九月には老中職を免ぜられ、天保の改革は失敗に終わった。天保十五年(弘化元年)六月家慶の懇望によって老中首座に返り咲いたものの弘化二年(一八四五)二月には免職となり、九月には失政の故をもって二万石の減封、隠居のうえ蟄居を命ぜられた。つづいて十一月嗣子金五郎忠精(ただきよ)は出羽山形に転封、忠邦は失意のうち嘉永四年(一八五一)二月江戸三田下屋敷で没した。五十八歳であった。【浜松在城 三十年間】したがって水野氏の浜松在城期間は文化十四年(一八一七)九月から弘化二年十一月までのおよそ三十年間であった。

水野忠邦像(東京都立大学蔵)