水野氏浜松入

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 さて御城引渡しは文政元年(一八一八)五月二十八日のところ、六月二十二日に延期となり「持林書上箇所付帳」「圦橋箇所付帳」「宗門帳人別帳」「牛馬毛付帳」「差出帳」「反別帳」などの諸帳簿のお改めと定まった。一方には水野家の家臣は文化十五年(文政元年)三月から三、四回に分かれてぼつぼつと浜松へ到着、上新町(かみしんまち)・七軒町・成子坂(なるこざか)町・塩(しお)町・肴(さかな)町・本魚(もとうお)町・大工(だいく)町・利(とぎ)町・紺屋(こうや)町・平田(なめだ)町の十か町に分宿し、荷物も三月ごろから弥助(やすけ)新田(天竜川西岸、松島町)・舞坂湊・入野村(佐鳴湖岸、入野町)の三か所に到着したので領分の各村から割宛人夫を出して浜松へ運んだ。また退去の井上家の家中の者は六月十九日までに前記十か町以外の町屋へ移った。
 【領内庄屋出頭】六月二十日には領分の庄屋・組頭・百姓代の名簿を、田町に出張の代官森勇右衛門の宿所に提出し、つづいて二十一日には一同の印形を届け出た。いよいよ二十二日である。各村の庄屋一同は命によって夜も明けやらぬうちから袴(はかま)羽織上下持参で郷宿に詰めていると、明け七ツ半(午前五時ごろ)塩町光秋寺(不詳)で待機するよう仰せがあった。長い長い時が過ぎた。そしてようやく七ツ時(午後四時)になって旅籠町伊藤本陣の裏の広場で庄屋一同勢揃いして威儀を正すうちに、何村庄屋誰々と大音で指名され、おそるおそる中泉御元〆服部様の前へまかり出ると、中泉代官伊奈玄蕃の口上で、このたびの所替についてのこまかい指示があった。「其日極暑ニ付庄屋共難儀」であった、と記している。
 【城明渡し】有玉下村庄屋高林伊兵衛(方朗)は二十二日のことを、当日は上使牧野采女(うねめ)・柴田庄衛門・中泉代官伊奈玄蕃らの立会のもとに水野家家老拝郷縫殿(はいごうぬいと)・重臣二本松一介が城を受けとり、翌二十三日井上家の家臣は明光寺口から退出すると代わって水野家の家中の者は大手門から武器を持って隊伍堂々と入城し、とどこおりなく交替が終わった、と書きとめている。
 ところで忠邦がどのくらいの期間浜松に在城したかという点になると、じっさいには江戸生活が大部分で、親政を標榜しながらも直接に藩政にたずさわることは不可能だったらしく、実務は藩吏に委任していたと思われる。