掛塚領有案

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 ところで水野藩は文政三年(一八二〇)に天竜川の河口の掛塚・鶴見・芋瀬(いもせ)の三輪中(わじゅう)の組合村である駒場(こまんば)村・藤木村を自領に編入しようとした。その目的は「浜松之儀航路無之」ため掛塚湊を外港として「荷物水揚岸場」を確保するとともに、これらの漁村から漁猟運上をとりたて藩の収益を増加することにあった。これはかつて同藩が唐津時代に湊を所有し漁猟運上の収益もあったことから、その例を浜松においても踏もうとしたためであった。【漁民の反対】しかし、これはこれらの村々が、慶長年間より御料所に属し私領へ割替になった例もなく、天竜川出水のさいには私領では「御普請が手薄」となるし、それに漁猟運上がかかっては生活困窮者には家職のさしつかえとなる、ことに掛塚湊は遠州灘をひかえて名だたる「難湊」で舟の出入りには出費が多いため中泉代官から多大の拝借金を得て賄ってきたのに、私領となってはその途が絶えることになる、と反対したので中止のやむなきにいたった(『文政三年芋瀬村御願訴前書』)。【廻船問屋の反対】すると水野藩は藩船を掛塚湊に常置し、出帆の順序を無視して優先的に江戸へ諸荷物を輸送しようとしたが、これも廻船問屋の猛反対にあって断念せざるを得なかったことは前に述べたとおりである(第五章第二節)。