当時の諸藩はみな藩庫の窮乏になやんでいたが、水野藩もまた同様であった。すでに唐津時代から赤字であった藩財政は、忠邦が宿願を達して浜松入封後もいっこうに好転しなかった。これはすでに忠邦の苦慮するところであったが、文政三年六月に国元の浜松から江戸屋敷の年間経費一万両節約の要請に接したときは「此度勝手向差支ニ付委細申越候趣致承知驚入候事ニ候」(『浜松告禀録』)と非常に驚いている。しかし、この場合その対策としては家臣の禄を減ずるか、農民に年貢を強制するか、藩の借財を踏み倒すか、この三つの方法しかない。【窮乏打開策】そのあいだの詳しい経緯は省略するが、忠邦は文政八年・文政十二年と厳令を出して藩財政の確立に努力したけれども、好転しなかったので、ついに翌十三年(天保元年、一八三〇)正月に上方の豪商よりの藩債はすべて返済を中止するという非常手段に踏みきった。いわゆる借金の踏み倒しである。
【運動費強制】しかもこの財政難の中にあって、天保二年九月に忠邦は浜松の年寄・勝手方の水野小河三郎(おがさぶろう)に、江戸送金の七千両を五千両とするかわり、五か年間毎年二千両ずつ別途送金せよ、と命じている。当時西丸老中職にあった忠邦にとって、さらに本丸老中に進み、忠邦のいういわゆる「青雲の志」を達するには、莫大な工作資金が必要であった。「これなくしては昇進にも差支える」、とその運動費の捻出を命じたのである。これには江戸の勝手方勘定豊田喜斎や浜松の吟味役の猛反対があったけれどもこれを抑え、大津(近江国)での藩債を棚上げにし近江国での収納分から二千両を浜松に回送させることによって藩庫の穴埋めに充てたという。
浜松告禀録(東京都立大学蔵)