人口の流出

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 そこで、零細農民はわずかの手作地ではとうてい生活ができないので、やむを得ず副業にはげむとか小作人となって生活を支えるしかなかったが、おいおいに家を離れて出稼や奉公をする者も現われてくるようになってきた。前にもふれたように(第四章第二節)、享保四年国領組五十三か村の総人口一万四千五百六十二人の中で男女の出入は合計三千八百四十三人に達している。これは全人口のおよそ二六%にあたっている(『国領組諸色覚帳』)。また同十年有玉下村では人口四百六十人のうちで、村を出て働く者六十五人で領外に移住する者四十三人となっている。この傾向を入野村の竹村広蔭はその著『農家心の鞭』で「郷里をつくづく思い見るに、近来は壱人の懐手して利潤の深き事斗りを聞き羨み、損毛有る時を思はず、古業をすてて新業を始め人通り繁昌地へ出る人多くなり」と歎いている。