このような農村の人手不足は、小作人の地主に対する小作賃割引の強請となった。天明三年(一七八三)正月の貴平村『内藤家文書』にも「近来小作之者村々最寄中合地親江対し小作年貢不法の差引申かけ、地親不致承知時は、田畑差戻候抔申之難渋申かけ」るものがあるのは不埒のことだとあるし、広蔭は「文政八九年の比より地親より預けに頼み廻り候様に相成候に随ひ、段々下作人の方気強く相成り、下作へ徳米余計に取られ地子米少く相成」(「変化抄」『浜松市史史料編四』)と世相の変化を慨嘆している。
高林家諸用記(浜松市立図書館蔵)