農村人口の減少は必然的に潰家の増加ともなった。天保八年三月水野藩は、潰門(つぶれかど)の持高や屋敷高などの調査をしている。この現象を「段々と御田地は古来の反別に潰門多く相成り、人別少く相成」(『変化抄』)と広蔭は歎息し、文政十一年三月、方朗も「村中風儀乱れ農作次第御年貢散乱いたし候輩も有之、自然と及衰微潰門多相成、渡世難出来族多、村方行立兼候次第に候」と慨嘆している。奉公人の給料はあがる、下作人は高額の小作料(徳米)を要求する、年始には下作人が年玉を持参して顔を出すのが通例であったのに、それも行なわれないようになり、しかも潰家の増していくことは「村の重立った家」に生まれた広蔭や方朗にとってまったく嘆かわしいことであった。【農地の荒廃】『市川文書』(浜北市)も、年々潰家ばかり多くなっていくのに新門の取立てはなく、手余地は多くなるばかりで耕作は行きとどかない、このままでは「次第に村方困窮相募り、後には一村の退転に拘り候様」になるかもしれないと農村の前途を憂慮している。