天保七年の飢饉

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 【汐風 天竜川】同七年はことのほか「冷年」で三月ごろから雨天がつづき土用になっても気温が上がらず、八月十三日の彼岸の中日には五ッ過ぎから大風雨と汐風で、またまた天竜川が富田村付近で破堤している(『松島家文書』)。「古今稀成凶作」となり米価は一両につき四斗四升で一升百八十四文となり(『西伝寺文書』)、人々の困難は言語に絶し有玉下村では樹木は立枯れとなり、水腐れした木綿はこぎ捨てそのあとへ菜や大根・早稲麦などを蒔き付け、ようやく飢えをしのいだ(『有玉村高林家諸用記』)。この年水野藩の減収はじつに四万五千六百十四石におよんだという。浜名湖岸の旗本大沢領庄内地方でも、汐風のため農作物が枯死し冬の食糧が欠乏し、宿芦寺において同年十一月から翌年三月まで粥施行をしている(『宿芦寺文書』)。【磯丸】三州伊良湖の漁夫歌人磯丸がたまたま遠州に遊び「もとの渕もとの瀬をゆけひと筋に水も道ある御世をまもらば」と天竜川の水難除けの歌を詠んだのはこのころである(愛知県教育会編『磯丸全集』)。