天保八年の飢饉

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 うちつづく天災地異に有玉組合村では天保八年正月、神主・僧侶・村役人たちは連れだって遠州灘の米津海岸で精進潔斎して五穀豊𩜙の大祈祷会をもよおしたが、その悲願にもかかわらずこの年は前年にまさる「凶年」であった。【救済金】春には干菜(ほしな)にも困り木綿作は皆無同様で、米価は一両二斗五升に暴騰し、さすがに藩も放置することができない、三月には町在へ手許金三百両を支出して救済にのりだした。潰家へは一貫五百文半潰家へは八百文であったという。村々へは米で分配されたが、有玉下村では人口の四割の百四十六人が一人四合四勺余の米の配給をうけたという。しかし、これだけでは十分でなかったとみえて粥(かゆ)の炊出しもして事態に対処している。有玉組合村では六月に年貢麦代割付の三分の一に減ずるよう藩に嘆願したが許可にならなかった。【暴風】そこへ八月五日・十四日の暴風雨である。田畑は荒廃し明日の食にもさしつかえる惨状を呈した。入野村では村の主だったものが扶食米を差し出し、村役人宅で粥施行をし(『変化抄』)、都田方面でも春干菜にも困り米は両に二斗五升となって志都呂の「殿様」(旗本松平家)から救米があり、年貢にこまる村々へはやりくりをし「一同しづかに暮し」たという(『都田村年代手鑑』)。
 つづいて藩は天保十一年「貧民御救令」を出したが、その効がなかったのか翌十二年、有玉組合村では金十両を代官所から拝借して急場をしのいでいる。十三年十二月二十日には大雪が降り(『中村詠草』)、十五年には馬領家村の農民がうんかの害のため三嶋陣屋へ見分願を出している(『河村文書』)。

都田村年代手鑑 部分(浜松市都田町 坂本柳次氏蔵)