【火災】ひるがえって浜松宿をみると、文政十二年二月二十七日伝馬町熊野屋から出火し、後道へ延焼して杉浦・梅谷本陣をはじめ百五、六十軒焼失し、さらに天保六年十一月十二日夜には、鍛冶町より出火、伝馬町ほか五か町に延焼し、人馬の継立にもさしつかえる有様であり、助郷村も宿から触書があっても遅参不参が続出し人馬を供出する余力もないという状態であった。【助郷村との紛争】このため宿と助郷村とのあいだに紛争を生じ、翌七年三月の浜松宿増助郷三十五か村五か年間の指定となった。このとき藩年寄水野小河三郎たちは宿の負担の軽減を意図した宿役人を支持したが、助郷村の立場に立った忠邦の決断により水野小河三郎らがしりぞけられ、この裁決になったのだという。しかし、浜松宿助郷総代も「浜松宿江助馬之儀被仰付候、少茂我儘成儀不仕、浜松宿より触次第馬急度出し可申事」と誓詞血判させられている(前述)。