【衣生活】たびたび引用した竹村広蔭の『変化抄』は著者の住む浜松領敷智(ふち)郡入野村を中心として、化政から天保へかけての生活の変化を記録したものであるがそれによると、たとえば衣類も質素であったけれども天保三、四年ごろになると「上所の品程売候世中に」なって色彩も華美におもむき、帯の幅も広く、櫛笄(くしこうがい)も銀やべっこうが愛用されるようになった。農村でも若い者は髪結床へ通うようになり、女髪結もはじまり、町方の風が在方へ浸みこみ「困り果候世の中と相成候」と述べている。【食生活 菓子屋】また食物も「上下ニ不拘益々奢に長じ」、たとえば菓子では尾州の尾張屋清兵衛が文政四年浜松で極上菓子の製造をはじめてから宮坂屋とか丸屋がこれをみならい、菓子屋の数が増加してきた。【溜り屋 砂糖】「溜り屋」では浜松連尺町の樋口弥右衛門や宇布見(うぶみ)村の中村弥九郎・同善左衛門、酢では浜松鍛冶町の源七店が老舗であったが、各所へ店ができて「われましに安く売り出し候ニ付、家々造候より買候方宣敷と相成」、横須賀(小笠郡横須賀町)の白砂糖、舞坂の海苔も普及し、金(かね)さえ出せばなんでも買える時代となった。【住居 村狂言】また住居も薄暗い連子窓が雨戸にかわり、いろりの自在鍵もへっついと変わり「人々の気品高なる奢の下地相あらはれ候哉、家作之立前高く相成」、村々には村狂言が行なわれ、生活が奢侈になった、といっている。これは入野村の例であるが、これはどの村にも通じることであったろう。
しかし、庶民の生活がゆたかになっていくことは、当時の為政者の目からみれば奢侈贅沢の行き過ぎでしかない。そこでその対策として用いられたのは保守的な勤倹節約という常套政策であった。