【大念仏】まず天保八年十月には公儀触書によって酒造高を減じ(当時浜松成子坂町権兵衛の酒造米高は四百石であった)隠し造りを禁じ、同九年九月百姓町人の金銀具の使用を止め所持せる者には提出を命じ、同十一年七月には大念仏を停止しているが、こえて十三年になるとにわかに布達の数を増してくる。【凧揚 人別改】すなわち十三年三月には絹布着用を禁じ、また初凧揚げにおける無益の出資の抑制を命じ、透し凧や紅地の凧を禁止、四月には野菜類の初物の売買を禁じ、五月には「御改正ニ付」家人に下された諸事節約令にもとづき在方への触書の励行(たとえば下駄履・雪踏ばきは無用とか、雨傘は白張とし平日は簑の使用、日傘の禁止、衣類の華美を禁止、冠婚葬祭のときの一汁一菜の励行など)を命じ、旅籠屋の飯売女を取り締まり(一軒につき二名以内とする)、六月になると出家・社人・山伏・修験・神職の町住居を禁止(町中で出家の法談や念仏講・題目講の寄合禁止、陰陽師・普化僧・道心者・尼僧等は本寺または師家の証文を取り、その上に請人を立て裏店へ住まわせることなどをふくむ)、七月に新版書物の取締り、八月に石灯籠・石手水鉢・庭石等の奢侈高価の品の売買禁止、江戸京大坂の歌舞伎役者の他国興行の禁止、同十四年三月の在方の者の都市生活の禁止と五月の人別改令、六月の町人武術𥡴古の禁止、十月買占めによる暴利を抑制する不当相場防止令が出ている。【芝居 若者組】これらはいわゆる「公儀御触」によるものであるが、そのほかに水野藩は天保三年八月浜松城下近辺に芝居興行には「壱人たりとも右見物相越候儀決而不相成」と厳達し、天保十一年七月大念仏・小念仏・初凧の停止令や(『土のいろ』復刊第十八号―遠州大念仏―)、若者組に対し「他村付合」の禁令を出している。