囲穀奨励

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 農業を奨励し、これによって米穀の収穫を増すことは年貢の多寡にかかわることなので、藩にとっては勤倹節約策とともに重要な政策であった。
 藩は、天保四年(一八三三)十月に年貢の皆済を怠り「穀物令散乱」ものに戒告を出し、翌五年十二月には穀物の他領への販売を止め、凶年に備えて貯蔵をすすめ雑穀を混じて常食とするように布達し、さらに天保八年七月に他売を再厳禁するとともに余剰雑穀の時価による買上げを布告し「御買上ニ相成候而者上江御引上切りに」しないから安んじて供出するようにといっている(『有玉村高林家諸用記』)。【崋山の感想】天保四年正月二十八日に浜松を通った渡辺崋山も輿夫から、水野忠邦が領民から人望のないことや、また領民に鎌や菜刀・油類などを高価で購入させていることを聞き『全楽堂日録』に書き留めている。水野藩の政策に信望のなかったことがわかる。【囲穀主法令】つづいて天保九年七月には凶荒にそなえ「囲穀(かこいこく)主法」により囲米・囲増趣旨を徹底するよう六手代官に厳達している。
 天保八年三月に農業人口確保のため潰門の調査をしたことは前述した。