天保十年になると、藩は勧農の趣意にもとづいて領内各所に出張役所を設置した。有玉下村市場に開かれたのは正月十一日であった。【勧農掛】これによって廻村を強化し農村の実態を直接に把握し、集穀囲米の事務を簡素化するのがねらいで、庄屋たちを勧農掛の名のもとに配属した。藩は、村の実情にもっとも通じている庄屋たちを農民からはなして準藩役人として編入することによって勧農と貯穀を推進しようとしたのであった。と同時に藩は各出張役所に農民を集め勧農の条目を読みきかせ、その趣旨の伝達徹底をはかっている。また家老拝郷縫殿は騎馬で村々を巡回し勧農掛庄屋に督励と慰労の言葉をかけたといわれる。設置にあたり代官支配下の村惣代十五名は、このたび出張役所が設けられて農事視察の廻村をしていただけるのはありがたい、ことに出精の者には農具を褒賞として下付されるとのこと「仁恵之至冥加至極」である、この上は「騎之諸品御差留倹約第一」のご趣旨を体し「愚昧之小前男女に至迄」感激発奮して「農事に出精」のことは間違いない。ついては一歩進めて出張役所に代官の常駐在宅をお願いしたい、と有玉下村をはじめ「請所」十五か村の庄屋たちが請願書を提出している。これにはさすがの藩役人も面はゆかったのだろう、阿諛の嫌ありとして書き直し再提出を命じている(『有玉村高林家諸用記』)。