義倉社倉の設置

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 この出張役所設置を契期として、藩の囲米集穀政策も一段と前進し、その一環として領内に義倉(ぎそう)・社倉(しゃそう)と称する貯穀庫を設置する。義倉の目的とするところは、凶年に備えて籾(もみ)・稗(ひえ)等の雑穀を貯蔵し非常時にこれを放出するにあった。そしてその管理は藩が直接担当することになっていた。また社倉は義倉とその目的は同じであったが、運営は自治的なもので、この両者のあいだには明瞭な区別がなかったと思われる。なお義倉・社倉と郷倉(ごうくら)との関係ははっきりしない。このように天保四年以降毎年のように推し進められてきた穀物の貯蔵政策はこの年にいたってさらに整備強化されたのであった。
 【有玉下村】『有玉村高林家諸用記』によると有玉下村における義倉の初見は天保十一年で、その積穀の量は別表のとおりであった。第一表によると天保十一年の量は他の年に比して非常に多い。これは有玉下村の義倉が正式に発足する以前に同村において義倉と同性質の積穀があり、このとき引き継いだためであろう。この記録によると積穀は毎年一定量が納められていなかったようで、その量も社倉に比してたいへん少なかったことが知られる。しかし、この囲米集穀制がどの程度の効果をあげたかは明らかでない。おそらく藩が期待したようには進行しなかったのであろう。
 【増石代】藩は天保十二年四月に本年限りという触出しで、各陣屋の勧農掛(天保十三年に勧農長と改称)にたいし「増石代」を下命した。有玉組合村六か村では増石代二十五両であった。【積穀令】つづいて十月には高壱万石につき米籾百石の割で五年間の積穀をするよう指令を出している。
 
(表)第一表
年号義倉(稗)社倉(稗)
天保9戌   5900
10亥   5342
11子130995176
12丑10605130
13寅   3328
14卯 3255039
15辰 20355326
1549285431
合計101,423(但5斗入)

(表)第二表
村名義倉(稗)社倉(稗)
畑屋村1528578221
欠下村 44024172
町田村745445224
上瀬村1042265450
松木嶋村216515484
有新村243413224
60156329206
合計389,362(但5斗入)

身元積穀稗
左衛門3
佐左衛門3 
喜三郎3 
喜十3 
徳次郎(畑屋)4 
半右衛門(新村)3 
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