ついで天保十三年三月になると藩は「御積穀御仕法金」という名目のもとに、従来の積穀は現物割り宛で身元余裕のある者がその負担に応じていたのに対し、今度は全農民に高割りでしかも現金を醵出(きょしゅつ)させようとした。その負担額はおおむね高一石につき二十四、五文くらいを標準額とし、それ以下の者でも年五文ないし十文の負担を強制されていた。この指令にもとづきこの年有玉役所支配下五十三か村の醵出額は五百両に達している。【囲籾詰替令】しかも、この年九月には藩貯蔵の「囲籾(かこいもみ)」を毎年一回詰替する先例を改めて五か年目に一回と回数を減ずるかわりに年々一俵の貯蔵米につき籾一升の上納を村々に指達した。その方が村方として経費と労力が省略されてよかろうというのである。しかし、これは村方としては負担の加増である。そこで詰替を三年目に一回という案を上申したが、こんどは藩が受け入れなかった。ところで「御積穀御仕法金」について農民の小身難渋の者の迷惑難儀はこの上もないという非難の声があがり、藩は翌十四年にその負担分を総額においては変更しないが身元余裕のある者のみにしてよい、という改訂案を出した。この案がどのようになったかわからないが、有玉下村支配下五十三か村の醵出額は前年度より百両減の四百両となっている。【人別調】しかしこの年六月藩は人別調を行なっている。これは男子十五歳から六十歳を書きあげるのは勿論当歳から二、三歳までのもの、家主外で幼年後家であっても家督を相続したもの、家中や町在に奉公しているものはすべて、遠国にいって帰国したものもその都度報告せよ、というものであった。
【貸付金】さて右の四百両は翌十五年七月になると、仕法換えということで半高の二百両は八月中旬までに稗で羽鳥村の社倉に納め、残り二百両は年一割の利息をもって村々に貸付けを行なうことになった。村々から出金させ、その金をまた村々へ貸し付ける、そして利鞘(りざや)をかせぐ、これは藩がしばしば行なった手段であった。さきに述べた天保十二年四月徴収した「増石代」二十五両も翌月には他の難渋村へ貸し付けている。
天保十五年九月に有玉下村の半六は「御上様御用向」に対し「過言」があったとして閉門になっている。おそらくこのような藩の暴政について非難を浴びせたからであろう。