新源太夫堀

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 大工事は五嶋新田における新源太夫堀の開削であった。前に述べたとおり源太夫堀の開通は享保年間であったが、百年の歳月を経てこのころになるとほとんど砂に埋まれてしまったので、その南方に新しく堀をうがち水をみちびいて新田を開くとも周辺五か村の悪水を吐かさせようとする大がかりなものであった。延長千四百間、幅員約十間の新堀は、一千余両の経費と五万人余の人員を動員して天保七年四月竣成をみた。これが新源太夫堀で、松嶋村も村請として工事を命ぜられ「水腐相除」くことができたという(『浜名郡五島村郷土誌』牧田守弘「源太夫堀をふりかへりて」『成郷』創刊号)。このとき五か村の悪水の原因となる馬込川の浚渫も行なわれたが、水野藩は馬込川と天竜川とを新源太夫堀によって連絡し通船の計画を持っていたのである。工事費はいわゆる天保銭をもって仕払われ近郷天保銭を見ざるはなかったという。