田尻湊

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 新源太夫堀の工事と前後して、天保四年敷智郡田尻村の庄屋孫蔵たちは廻漕業の権利復活運動をおこしている。その願書によると、田尻村は「往古同郡天竜川流末村方ニ而田尻湊と相唱、本高之内湊高に弐石目船役高五石四斗目」を納め「廻船問屋株式多分有之、国々諸廻船入津諸荷物引請、口銭敷取之渡世仕、土地相応之場所柄」であったが「寛永二年(一六二五)麁玉郡新原村地先天竜川筋ニ築堤」があってから河道が変わったため、その下流の田尻湊はまったく衰退するにいたった。ついてはこの際廻漕業の既得権を掛塚湊において復活させてもらいたい、というのであった。寛永二年は誤りであろう。孫蔵らは江戸表へ出て請願におよんだが、すでに二百年余の星霜を経ていることであり、その目的は達せられなかった(『浜松発展史』)。天竜川の流路に変遷があっても船役権を存続し得た船越村に比して、田尻村の場合は適切な処置を欠いたためにおきた悲劇であったともいえよう。
 忠邦も産業開発には関心をもち、すでに文政九年家中にたいして国益計画の上申を指令しているくらいであるが、このころになると殖産興産政策として楮(こうぞ)の栽培と製紙をはじめている。