『変化抄』によると、天保十年蜆塚村に藩役人が現われ土を運びはじめた。たずねると、名残新田へ楮の植付をする肥料にするのだという。それでは壕ができるので困るといったが「強断候得者咎可申付杯被申」れるので腕をつかねて見ているばかりであった。そのため蜆殼の堆積によってできた塚ももとの姿を失ってしまった(現在の蜆塚遺跡である)。こういうやり方は「衰微之基」になるのだ、と憤慨している。【製紙業】権現谷村(富塚村の分村)で多八なる者が藩命によって紙漉きをはじめたのもこのころだという(『富塚村誌』)。『変化抄』には「水野様権現谷にて紙漉始り」とあるが、資料に乏しい。