大蔵永常

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 藩が興産政策の一環として農学者大蔵永常(おおくらながつね)(徳兵衛)を浜松に招聘したのは天保十三年、その年の十月十三日浜松後道(千歳町)の役宅に入り五人扶持十両であったという。永常は藩に対し興産の仕法について献策するところがあったというが、具体的にははっきりしない。邸内に櫨(はぜ)の栽培を試みたと伝えているばかりである。しかし、天保十五年(弘化元年)には『広益国産考』八巻の大著を完成している。六十七歳であった。【興産方】忠邦の失脚とともに翌弘化二年興産方を免ぜられ、同三年五月江戸へ移った(早川孝太郎『大蔵永常』)。その妻女は浜松で病没し(法名は妙超)、同年二月浜松池町芳蘇寺に葬ったという(『芳蘚寺過去帳』)。
 このように櫨・楮・製紙といい、どのような成果をあげたかは明らかでなく、また専売制が行なわれた形跡もみとめられない。